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治水工事に取り組み、村の発展につくした初代

私の祖父でミズカミの創業者である水上与吉は、現在の本社がある庄川町青島の隣村にあたる三谷村に生まれました。平凡な農家の、7番目の息子だったそうですが、どういう理由からか東京で建築を学ばせてもらい、国会議事堂の建設にも関わりました。
27歳の時に東砺波郡青島村(現砺波市庄川町青島)で料理旅館を営む水上家に婿入りし、すぐに建設会社を立ち上げました。
その青島村には富山を代表する河川、庄川が流れています。当時は暴れ川で、大雨や台風のたびに幾度となく決壊し、大きな被害を与えていました。創業して最初の大仕事は、この庄川の治水事業を請け負い、地元のたくさんの働き手と共に工事することでした。

東京で学んだ土木建築の知識を活かして、当時最新の技術で取り組むものの、大自然の力はそう簡単に克服できるものではありません。毎年のように災害が発生、復旧工事や護岸工事に追われました。しかし、“この大事業をやりとげなくては村の発展はない”と、発注元の国はもとより、村人の誰もが思っている工事です。その期待を受けて働く与吉達も、絶対に諦めるわけにはいきません。何年にもわたる根気強い取組みによって、流れは次第に穏やかになり、橋も架けられました。我が家には庄川の河川工事が完了した時の、晴れがましい式典の様子を撮った写真が大切に残されています。

 

ミズカミ初代・水上与吉

▲庄川開通式に臨む、ミズカミ初代・水上与吉

 

胸に刻み込まれた祖父の偉大さ

私が中学3年生の時に祖父は亡くなりましたが、どこに行くにも一緒に連れて行ってくれたやさしい祖父でした。祖母が営む料理旅館にいつも大勢の人が集まり、子供心にも人から頼りにされている祖父のことが誇らしかったものです。祖父自身は庄川の出身ではなかったにもかかわらず、推されて村長を務めたこともありました。それだけに亡くなった時には、胸にぽっかりと穴があいたような喪失感を味わいましたが、自分の住んでいる村のためにできる限りのことをするという祖父の生き方は、少年だった私の胸に大事に畳み込まれたのです。

胸に刻み込まれた祖父の偉大さ

▲昭和初期の庄川堤防工事の様子。土手の補強に用いる蛇籠(竹籠に石を詰めたもの)が見える

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